2013年7月31日水曜日

本郷町の「おおくぼ糸綿店」が閉店間近

レトロなたたずまいが異彩を放っている「おおくぼ糸綿店」が閉店間近となりました。





先日、「パーラー はるよし」であんみつを食べていたときに、お客さんから「おおくぼ糸綿店が閉店する」という情報をいただき、すぐさまお店を見に行きました。


店頭のケースに模造紙が張り出されています。



ほんとうだ!












ご主人にお話を聞くと、年齢的にも80歳を超えてこれ以上続けていくのが難しくなったそうです。


ホーロー看板が懐かしい!
このときはセメダインの看板があったのですが、後日、再訪したらこれが消えていました。
誰かが買って行ったのでしょうか。





懐かしいリリアン!


ピンポン玉もばら売り。


















残念です・・・(涙)

posted by ほんごう君

2013年7月28日日曜日

本郷町商栄会で縁日

7月27日(土)、本郷町商栄会の縁日が開催された。
聞くところによると昔は毎年やっていたそうだが、それが何年か前から途絶えてしまっていた。
それを残念に思う町内会、商店会のみなさんの頑張りにより昨年、めでたく復活したという。


夕方5時。
だいぶ準備ができていた。













焼きそばコーナー。
準備万端。
あとはオープンを待つだけ。













ラムネの販売もあるようだ。















かき氷コーナー。
ポップコーンも。










 


焼きトウモロコシ。
仕入れ先は、もちろん八百屋の森北だ。
一旦茹でてから焼くという。

100本ほど用意されていた。
人気の逸品なのでオープン前から焼き始めている。









フランクフルトのコーナー。

















スーパーボールすくい。












これは縁日ではない。
「魚秀」の商品だ。













5時30分。
いよいよ縁日開始。

子供たちが大勢集まってきた。










































「肉のたかはし」のフランクフルトだ。




























森北のトウモロコシ。

ウマイ!!












満寿屋の麺を使った焼きそば。
長い行列ができていて買えなかった…










注文が多すぎて焼くのが間に合わない。

時間があれば並んだのだが、次の仕事があり残念ながらバスに乗る。









posted by よんなん

2013年7月5日金曜日

部会活動のあとは中華で


安田屋さんのところで部会活動をしたあと、近くの中華料理店「木の子」で懇親会。
なかなか美味しい!


揚げワンタン、イカとキュウリの和え物が絶品!



2013年7月4日木曜日

商店街うんちくツアー 交流会



嶋田 お茶とお煎餅が用意されています。これをいただきながら交流会を進めていきたいと思います。
羽生田 本牧リボンファンストリートの「花見煎餅吾妻屋」さんの煎餅と人形焼のセットです。人形焼は今日、特別に焼いてもらいました。
嶋田 花見煎餅さん本店のものではなく、こちらのお店で独自に焼いたものなんですね。出来たてのホカホカ!
羽生田 そうです!



嶋田 それではお話を進めてまいりたいと思います。まず、きじまやさん、お名前は河野さんですよね。
河野 そうです。
嶋田 何代目とか本名とか、自己紹介からお願いいたします。


河野 わたし河野です。お店の名前は「きじまや」です。どうして「きじまや」というのかお話しておきます。先代が城島村から出てきたのです。この城島村に河野一族が住んでいました。源頼朝が兵を挙げたときに最初に助けたのが河野一族。その城島村はどこにあったか。相模川が河口で花水川と馬入川に別れてデルタ地帯を作っている、そこが城島村でした。両方を川で囲まれた島のような状態で、その中に城があったので「城島」という名ができたそうです。最近、エンディングノートを書いていて、こういうことが分かってきたのです。今日の参加者もそこそこのご年齢ですので、お勧めします。
会場(爆笑)
嶋田 河野さんは何年生まれですか?
河野 ナインティーン・トゥエンティーフォー、1924年です。
嶋田 関東大震災の翌年ですね。それではマイクをお隣へどうぞ。


吉野 海老名畳店の4代目、吉野です。
嶋田 河野さんは相模川の河口部から出てきたというお話でしたが、海老名さんはいかがでしょう。
吉野 曽祖父が横須賀の野比から出てきたと聞いていますが、詳しいことはよく分かりません。
嶋田 横浜に出てきたのはいつ頃ですか?
吉野 120年ほど前です。
嶋田 横浜で最初にお店を出したのはどこでしょう?
吉野 馬車道です。その頃からのお客さんである「江戸徳」さんとは、今でもお付き合いをさせていただいています。
嶋田 河野さん、お生まれはこちらですか。
河野 そうです。ここで生まれ育った、純粋なるハマっ子です。希少な横浜の90歳です。
会場 (笑い)
嶋田 小学校はどちらですか。
河野 大鳥小学校です。同級生からの年賀状は今年3通になってしまいました。生きているのが、これだけになってしまったんです。
嶋田 吉野さんはどちらですか?

吉野 大鳥小学校です。
嶋田 ということで、大鳥小学校の先輩と後輩がここで揃いました。さて、河野さん、お店が下駄屋さんから靴屋さんに変わったのはいつ頃なんですか。
河野 もともと武士には上士と下士とあって、上士は下駄を履き、下士は草履を履いていました。みなさんご存知の坂本龍馬、彼は下士だったので草履をはいていたのですが、長崎に行った際にブーツを買いました。アメリカでは大統領もカウボーイもマーチャントも、みんな同じものを履いていました。人間は平等であるというのは、まず足元からだと。坂本龍馬は下駄を履きたかったのですが、それを放り出して靴を買ったわけ。だから下駄が真っ先に消える運命にあったのです。
会場 (笑)


嶋田 きじまやさんは戦後、靴屋さんになったのでしょうか。
河野 いえいえ、戦後もまだ下駄を売っていました。下駄が終わったのは昭和30年ころかな。しかし、靴屋に転向しようと思ったら、その頃には街に靴屋がたくさんできていて、それらと同じではもう遅いということで、スポーツシューズを専門に扱う靴屋にしたのです。しかし、靴というのはサイズが20種類もあって、さらに色や流行もあるので、うちの店には8000足も在庫がありますが、お客さんが買うのはサイズの合致したその中の1足だけです。これが敷布なんかだと、気に入ったのがあれば3枚、5枚と買っていってくれます。靴屋はやっちゃいられない…
嶋田 靴屋さんに転換したときにお店がたくさんあったと仰いましたが、本牧にはどれくらいあったんですか。
河野 10軒くらいありました。でも、みんな店を貸したり、やめたりして、どんどん減っていったのです。

嶋田 先ほどお店を見て回りましたが、これほどいい靴をなぜ安くできるのですかという質問がありましたが。
河野 永年やっていると問屋さんに信用がいい。30年以上つきあっていると、営業の社員も会社でえらくなっています。だから、こちらの言うことも聞いてくれるし、なかなか出ないものも回してくれる。それから10程のお店でボランタリーチェーンを組んでいます。茨城、栃木、千葉、川越、長野だとかの一流店舗と共同仕入れ機構を作ったのです。そこで仕入れるから安く手に入るし、なおかつ良いものを早く仕入れることができるわけです。支払いも現金主義ですから、いちばん有利な状況で仕事ができるわけです。だから有名ブランド品がアウトレットとして安く提供できます。金沢八景の方にも大きなアウトレットショップができていますが、どうも具合がよくない。どうなっているのか分かりません。単に安ければいいというものではない。
流行を追わなければいけないのですが、さっきも話したとおり、一つの靴に20のサイズがあるわけですから、これを5種類揃えるとなると100足仕入れなければいけません。しかし一人のお客さんが買うのはこの中の1足だけです。青が好みで買われたとしても、他の赤や黄色は買っていただけない。そして流行が終われば、たちまち在庫を抱えるというわけです。

嶋田 お店の奥のほうに、丈夫そうな靴が置いてありましたが…
河野 あれはうちの特殊な靴で、戦場で履ける靴なんです。最初から市街戦用に作っているんです。
嶋田 若い男性が好んで履く靴なんですね。
河野 若い男性にも女性にも評判がいいのです。重たくてどうしようもない。
会場 (笑い)
河野 単に丈夫とかではなく、ファッションなんです。重たくて引きずって歩いている。あれを履いて電車に乗ると、周りの人がよけてくれる。なぜかっていうと、この人に踏まれたら痛くてしょうがないから…。
会場 笑い

嶋田 さて、特色といえば、吉野さん。今日は参加者にこの冊子を分けていただきましたが、八代とのお付き合いはいつから始まったのでしょうか。
吉野 私はこの7月で3年です。
嶋田 それまでは国産、中国産を扱っていたのでしょうか。
吉野 国産にこだわっていたのですが、価格帯では中国産にかなわない部分もあって、たとえば賃貸なんかは中国産を使っていました。ただ、一般のご家庭のものは国産を使ってきたつもりです。お店でもお話したように偽装のからくりを知ってからは100%国産だったかどうか、これは問屋さんにしか分かりません。

嶋田 国産と中国産の違いについて、もう一度お話ししていただけますか。
吉野 耐久性の問題です。い草を刈り取ったあと泥でコーティングをして、そのあと乾燥させるわけですが、中国産は80度の高温で乾燥させますが、国産は50度から55度で一昼夜乾燥させています。中国産は大量に製造するため高温で早く乾燥させているわけです。その場合、顕微鏡で見なければわからないレベルなのですが、細かいヒビが入っているのです。そして毎日その上を歩くわけですから、やがてひび割れしささくれ立ってくるのです。それと丹精の込め方が違うでしょうね。
嶋田 先ほど色が違うというお話もありましたが…
吉野 国産は刈り取ったあと、屋根瓦などに使う天然の土でコーティングします。このコーティングの過程で中国産は染料を入れていると言われています。
嶋田 染料は落ちますよね。
吉野 水拭きすれば青い色が布についてきます。粗悪品は拭くと茶色い畳が出てきます。

嶋田 ちなみに、今日、みなさんがお座りになっているこの畳は…
吉野 これは私の仕事です。
嶋田 これは国産でしょうか。
吉野 そのつもりで仕入れています。
嶋田 でも、ひどいですよね、産地偽装をする問屋さん。
吉野 畳表の問屋には産地問屋と地方問屋とあります。地方問屋というのは横浜など各都市にある問屋さんです。この2つの問屋を介して畳表が流通しますが、この産地問屋の方に、ちょっとずるい人がいるそうです。また狭い世界ですから、地方問屋もどこでそれが行われているのか知っています。国産が少ないですから、そういうのも仕入れてしまうのでしょう。

嶋田 国産はどのくらいの割合でしたっけ。
吉野 2割です。畳屋さんも国産がほしいわけですが、あまり単価を出したくないという人もいる。そのときに願ったり叶ったりなのが、こういう偽装品なのです。しかし、もっと悪質なのは、先ほどお店で見ていただいた「ひのさらさ」や「ひのさくら」といった高級品に真似て高く流通させていることです。お客さんもそれだけ高く買わされているわけです。
嶋田 本牧という地域はまだまだ和室があるお家が多く、それだけ畳の需要があるのでしょうね。他の地域と比べて多いんじゃないでしょうか。
吉野 それでも地元のお客さんの仕事は減ってきていますね。いや、減っているというよりも、畳表の交換のサイクルが長くなっているようです。私が畳屋になった25年くらい前は、3年から5年で裏返し、そのあと5年から8年ほど使って新しい畳にするというサイクルだったのですが、最近は裏返しを飛ばして、15年くらい使って新しくするというような状況があります。当時は私の父親は品物にこだわっていて、備後が一大産地でした。今は熊本が高級品の産地になっています。
嶋田 先ほど国産は2割というお話でしたが、そのうち熊本産はどのくらいなんですか。
吉野 95~98%です。
嶋田 ということは、備後は…
吉野 昨年の作付けはゼロです。作る人がいなくなると無くなってしまう。私はなんとかして残したいんです。畳屋も商売ですから儲けたいけど、それよりもこの「い草」が無くなってしまうと、日本から畳文化が消えてしまうんです。それを食い止めるために我々は活動しているわけです。
嶋田 畳床の種類は増えているようですね。
吉野 もともとは稲ワラです。機械で圧縮するようになって重たくなりました。私が畳屋になった頃は30キロから35キロでした。いいものは長持ちします。その稲ワラの畳床も、畳表以上に危機に瀕しています。作る人がどんどん減っています。そして、コンバインで刈り取るので、畳床に使う長さの稲ワラが取れなくなってきました。それで、思うように作れないということで、廃業してしまう畳床の生産者もいるのです。

嶋田 ところで、ここにある、畳を丸めて作ったような敷物? シートみたいなもの、これについてご説明いただけますか。
吉野 これは、私が参加している畳屋道場の社長である鏡畳店、そこの社員が作ったものです。彼は美術大学を卒業して一般の会社に就職したのですが、畳に魅せられて畳屋に転職してきた、そういう経歴の人です。


嶋田 これは商品化されているのですか?
吉野 はい、商品化されています。
嶋田 つまり、これからは洋風の生活の中にも畳を取り込んでいこうという思いで製作したわけですね。
吉野 そうですね。それから、真ん中に使っているい草は畳表に使えない寸法のい草ですが、表は「ひのさくら」の高級なものを使っています。これは見本ですが、実際はベッド、ベンチ、チェアもあります。
嶋田 それじゃ、せっかくですからこれを河野さんのイスに置いて座ってもらいましょうか。
会場 笑い

嶋田 今回のサブタイトルにはサイズということを取り上げています。靴のサイズは23とか23.5とかありますが…
河野 それは親指と踵までの長さです。ところが人によって人差し指が長い人がいる。そういう人は指の先が当たってしまうので特注にしないとだめです。それから横幅と甲の高さ、それが全部合わないと自分の靴は作れない。そうなると1足20万円とかになってしまうわけです。靴屋を始めた頃はね、男物の靴を3足売って10足修理をすれば家族5人が食べていけたんです。その頃の男物の靴は1足5000円、大卒の給料が15000円でした。その靴が今でも5,000円なのに対し、大卒の給料は150,000円とか200,000円になっている。だから靴屋さんだけが置いてけぼりを食っているわけです。だから本当は皆さんに1足50,000円の靴を履いていただかないとやっていけないのです。
会場 笑い
河野 靴は気に入ったといても、一度に5足も10足も買ってくれるわけじゃないですから、大変なんです。

嶋田 でも、カルロス・ゴーンさんは10足くらい買うんじゃないですか?
河野 いや、買いませんよ。500円の靴を買ったら帰っちゃう。
会場 笑い
嶋田 お店にカルロス・ゴーンさんと一緒に写っている写真が飾ってありましたよね。
河野 あの方は、必要であるか、ないかを判断して買っているのです。必要でないものはいくら安くても買わないし、必要なら50,000円でも100,000円でも買うわけ。自分で靴を履いてみて足に合えば500円でもいいのです。そこが日本人と違う。だから給料の差がでちゃうわけ。
嶋田 今年も日産の総会にお出でになるとか…
河野 しばらくぶりでお会いしてこようと思っています。なにしろ偉くなっちゃって、年収9億7千万円の人とはなかなかお話できなくなりましたからね。

嶋田 さて、次は畳のサイズについてお聞きしましょう。
吉野 江戸間、京間、中京間と3種類あります。畳の標準的なサイズは、丈が5尺8寸です。京間は関東間より、畳の目が幅で4つ分大きいのです。一目が1.5センチですから6センチくらい大きい。関東間で京間を使う場合は切ればいいのですが、その逆はできません。中京間はその中間です。
嶋田 ここに羽生田さんがお持ちになった鯨尺があります。これについて佐久間さん、すこしお話をお願いします。
佐久間 これは2尺の鯨尺です。1尺が37センチくらいですが、畳屋さんの曲尺(かねじゃく)は1尺が30センチくらいです。これは建築から入ってきた尺のサイズなんですね。私ども和装とかでは鯨尺で、1丈が12尺。私らのフトン屋のほうも同じです。
嶋田 今日は皆さんにプレゼントがございます。安田屋さんがお持ちくださった鯨尺をあとで差し上げます。さて、ここで質問タイムにいたします。

女性 河野さんにおたずねします。さきほどボランタリーチェーンのお話がでました。横浜以外の各地から10軒ほどで組織を組んでいるということでしたが、どのようにして築かれたのでしょうか。
河野 個々の店では流行というのはよく分からないのです。そこで流行を早く知ろうということで、いろいろな店が集まって、川越ではどうか、名古屋ではどうかという情報を持ち寄って話し合った。たとえば東京の流行と横浜の流行では半年違うんです。東京で流行しているからと言って、横浜で売っても売れないんです。向こうで売れなくなってから横浜で売れ出してくる。そういうことを早く知ろうということでボランタリーチェーンを作りました。こういうのがあちこちで作られたのですが、最近はこれも少なくなってきました。小売屋が弱くなって来ているんですね。大型店に対抗する手段がなくなり辞めざるを得なくなる、あるいは人に貸すということになってきているんです。

嶋田 ほかにどなたか。
男性 ヘリのない琉球畳は高いのでしょうか。
吉野 ヘリなしの半畳の畳は市松模様で使うのが流行っていますが、これはほとんどが偽物です。本来、琉球畳に使われる琉球表は大分県で作られています。本物はゴツゴツした感じなのですが、それによく似た風合いの目積(めせき)というゴザがあり、ほとんどがこれを用いています。大分県で作られている琉球畳の琉球表は希少なものなので非常に高価です。それから手間がかかるので高くなります。ヘリを付けずに織り込んでいくから、時間がかかるのです。1日やっても通常の畳の半分しか作れません。その目積に中国産が使われているわけですが、琉球表にも中国産が入ってきています。そしてともに痛みが早いです。本当の琉球畳をお求めになるとすると、非常に高いものになります。というか、希少なもので手間がかかるから、当然、そういう価格になるわけです。また、メンテナンスでも、たとえば畳表を裏返すときも、当然、手間がかかるからそれなりの費用が発生します。

嶋田 ほかに
男性 長いことマンションに住んでいると、スタイロ畳しか見なくなってしまうのですが、ああいう畳と稲ワラの畳とは、畳屋さんから見るとどうなんでしょうか。
吉野 どちらも畳屋さんが作っています。畳床はメーカーが作って、そのあと畳屋が畳を作るわけです。稲ワラの畳床は針が通っても修復力があるから、穴がふさがりまた縫えるんです。今はオガ屑を固めたようなボードもありますが、これだと針の穴が開いたところはふさがらないので、なかなか糸が締まらない。

嶋田 古くなった畳を有機農業のほうで使うとか、そういうことはありますか。
吉野 堆肥ということでしょうかね。緑区のほうに引き取る所があるようですが、一般的にナイロンの糸を使っているので、あまり喜ばれないでしょうね。
嶋田 ほかに
男性 柔道場の畳ですが、講道館と一般の道場の畳とでは違うのでしょうか。そして外国でオリンピックなどが開催されたときのあの畳は?
吉野 柔道場の畳は、われわれ町の畳屋は手を出せないところです。あれはスポーツメーカーなどが関わっているそうですが、どう見ても畳じゃないですよね。畳風です。もともとは畳でやっていたのでしょうけど、今では畳じゃ硬すぎてだめでしょうね。昔は手縫いといって、閑な時期に稲ワラを手で縫って作った畳床でしたので、あれなら柔らかくていいのでしょうが、今は機械で稲ワラを圧縮していますから硬いんですよね。これで競技をしたら危険ですね。

男性 テレビでやっていたのですが、稲ワラの畳の上でゴロンとすると疲れが取れるとか。ある程度効果があるのでしょうか。そしてメンテナンスは。
吉野 これからダニの季節ですね。稲ワラの畳床でもいろいろグレードがあって、一般的にいいといわれている稲ワラではダニが出たということは聞いたことがありません。それでも外から帰ってきて服についていたダニが落ちて繁殖ということあります。そうなったら畳屋にご相談ください。蒸し焼きにする方法と、畳表を替えるときに防虫シートを敷くという方法があります。ただし、防虫シートは薬を使っていますからお勧めではないですね。あとはできるだけ換気をよくすることです。

嶋田 もう一つ、畳が身体にいいということについてご質問がありましたが。
吉野 畳床についてはよく分かりませんが、畳表についてはアロマテラピーのおかげで鎮静効果があるといわれています。稲ワラの畳床がいいといっても、畳床を作る人によって、物は随分違いますから、一概にはなんとも言えないのではないでしょうか。稲ワラの畳床を作る名人といわれている人が2人いましたが、一人は作った最初からずっと硬いまま、もう一人は最初は柔らかいのですが、使っていくうちにだんだん硬くなる。そういうこともあるので、どれをもって快適というのか分かりませんね。

嶋田 お時間が少なくなってきましたので、最後に河野さん。
河野 今日はうんちくツアーということでしたので、皆さんにクイズです。江戸時代には浅草の向こうに鍛冶屋町とか呉服町とか、職業のついた町名がありました。では、てりふり町というのはどんな商売が集まっていた町だったでしょうか。
嶋田 分かった人?
会場一同 シーン…。
河野 これは天気が良いと喜ばれる商売と、悪い日、雨が降ると喜ばれる商売ですね。下駄屋と傘屋が並んでいる町がてりふり町です。それから、白波五人男というのがありますね。これはお天気なのに傘を指して、下駄を履いて出てくる芝居なのですが、これはてりふり町が広めた芝居ですね。下駄屋と傘屋が喜んで見ている芝居です。昔の下駄屋さんは傘も売っていたんです。

嶋田 吉野さんにもう一つお聞きします。本牧といえば、神社が出てきますが、本牧神社さんは、いかがですか。
吉野 これは奉納ではなく仕事として仰せつかりました。先ほどお話した日本一といわれている橋口さんの畳表を使って、本牧神社さんに納めさせていただきました。いただいた予算ではまかないきれない品物でしたので、ちょっと奮発しました。
嶋田 国宝級の神社にも入れているとか。
吉野 熊本人吉にある国宝の青井阿蘇神社です。そこの幣殿で畳替えを行いました。畳屋道場に加盟している畳屋でやったのですが、これは奉納でした。畳表は33軒の農家が寄付し、私たち畳屋はすべて手縫いによる奉納という形で行ってきたのです。

嶋田 そろそろお時間がやってまいりました。今日は、足に触れる履物、畳ということで、一級品の本牧自慢をお聞きすることができました。ありがとうございました。
羽生田 河野さん、吉野さん、嶋田さん、どうもありがとうございました。それでは最後に本郷町商栄会の佐久間会長より終わりのごあいさつをお願いいたします。






佐久間 本日は長時間、お疲れ様でした。どうもありがとうございます。
 この商店街うんちくツアーもこれで8回目を迎えました。今回もその道のプロから間近でお話を聞くことができ、その時代の風景から、様々ないきさつまで、たくさん学ぶことができました。
 なかにはお爺ちゃんのこと、お婆ちゃんのことを思い出した方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 本郷町の商店街は、それぞれ歴史のあるお店が揃っています。本牧リボンファンストリートも同じです。そういったお店がまちづくりに頑張っているわけでございます。
 この商店街うんちくツアーが今後も、長く続くことを願っております。
 今日は本当にありがとうございました。

商店街うんちくツアー 宮下商店



店主 関東大震災の直前に、風呂桶・釜のお店として先代が日ノ出町で創業しました。その後、被災して本郷町に移転して来たのですが、最初はこの道路の向かい側でお店を再開しました。

 そして次は横浜大空襲によって焼け出され、戦後、この場所に移転し現在に至っています。
 もともとは木製の湯船や風呂桶などを作っていました。最近は見かけなくなりましたが、ヒノキの部材を銅のタガで締めたものです。


 そこに風呂桶が置いてあるでしょ。これが本物の風呂桶だよ。
 最近はユニットバスの普及によって、木製の湯船を使う家庭が激減しています。ヒノキの桶もプラスチック製に取って代わられてしまいました。スノコも使われなくなりました。
 でも、ごく僅かですが木製の湯船を使っている人がいるんだよね。好きで使っているんだろうけど、たいへん高いものになります。いまのプラスチックやホーローの湯船が4つくらい買えるよ。



参加者 最近の家庭風呂は、ほとんどユニットバスに転換され、木桶やスノコなども使われなくなりましたよね。湯船や桶が木製からプラスチック系に変わっていくと同時に、飯台、おひつ、タライ、洗濯板なども消えていったと思います。風呂桶を作っていたのはいつ頃までだったんですか?
店主  昭和40年代半ばまでだね。変わった当初は風呂釜の修理もしていたけど、今みたいにマイコン制御だなんだということになるともう、私らの手には負えないね。


参加者 お店では洗濯板も売っているんですね。
店主 そこにサイズが書いてあるけど、これは54センチ×25センチ。昔からサイズは変わらないのです。ほかに36センチ×17センチとか26センチ×12センチなどというのもあります。
参加者 電気洗濯機が入ってくるまでは、大きな木製のタライで洗濯をしていました。そこで使っていたのがこの板でした。
店主 昔は孫が生まれると、そのお祝いに、祖父母が産湯用に名前入りのタライを贈ったもんだよ。今じゃ、そんなことはなくなっちゃったけどね。
タライ業者? 東京、横浜にはもう、タライを造っている業者はいないね。昔は山手に、桶屋が四軒もあったんだけどねぇ。
参加者 “風が吹けば桶屋が儲かる”っていうのがありますよね。大風が吹くと土埃が立つ、それが目に入って盲人が増える、盲人は三味線を使っているから三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される、ネコが減ればネズミが増え、そのネズミが桶を囓るので、桶の需要が増え桶屋が儲かる、そんな話しでしたが。
店主 そんな長い話じゃない。江戸の町には辻辻に防火用の桶が置いてあったでしょ。ピラミッドみたいに積み上げて。風が吹くとそれが倒れて転がり、タガが外れて修理が増えるっていう話しさ。
参加者 本牧に米軍ハウスがあった頃は、ボイラーの修理とかでハウスに行ったことはあるんですか?
店主 ハウスには行かなかったけど、軍属が住む住宅とかチャブ屋の風呂の修理には行ったよね。
参加者 その辺のお話は…
店主 それは、ちょっとね。話せないこともいろいろあるからなぁ。


(つづく)

商店街うんちくツアー 海老名畳店




店主 屋号は海老名ですが、私の名前は吉野です。母の実家なんです。私の曽祖父が初代で、祖父が2代目、父が3代目、そして私が4代目です。
 最初に店を構えたのは馬車道でした。本牧に大きなお客さんがいましたが、当時は麦田のトンネルもなかったので、山越えしなければならず大変だったのです。
 それで、この場所に移ってきたわけです。祖父はここで生まれ育っています。いま生きていれば115歳です。
 みなさん、この冊子は行き渡りましたか。(畳屋道場の案内パンフ)
 そこにもあるように、私は熊本のい草農家を手伝いながらい草を仕入れて畳を作っています。
 そこの壁に八代の岩崎神社で撮影した写真が貼ってあります。ここはい草の神様を祀っているんです。
 緑色のシャツを着ているのが私たち畳屋で、黒いシャツはい草農家です。他にもメンバーはいます。
 私たちはこの33軒の農家と提携して生き残りをかけています。なぜか。


 いま、国産畳表の国内流通って何パーセントかご存知ですか。約20%です。80%が中国産です。
 (現物を示しながら)これが中国産です。いちばん安いです。ここからこっちが、熊本産。私たちが提携している農家が生産したものです。
 平成元年に5800軒あったい草農家が、いま630軒です。25年間で約10分の1になってしまったわけです。先日もこの農家さんから連絡がありまして、あと10年持たないぞというのです。
 この人たちが中心になっているのですが、50歳代前半なのです。い草農家は60歳過ぎたらきつくてできないといいます。しかも時給200円くらいの仕事です。
 12月に田植えをして翌年の7月から刈り取ります。それを秋まで乾燥させて、それから織り始めるわけで1年がかりの仕事なんです。


 そこに安い中国産が出回っていて、せっかく良い畳表を作っても買い叩かれてしまったりするわけです。だから後継者が育ちません。今いちばん若い人が40歳です。この方があと20年やったとしても、一軒で全国の畳をまかなうことはできません。いくら畳離れしている時代といえども、それは無理です。
 皆さんに差し上げた畳屋道場の冊子に、私達の思いが書いてあります。
 山形県の鏡畳店が熊本の33軒の生産者と7年かけてこのシステムを作り上げました。これは農水省と経済産業省の連携事業にもなって、このようなパンフレットも出来上がっています。
 そこに33軒の生産者が掲載されています。その中の橋口さんという方が日本一の生産者なのです。この人の畳表は首相官邸、熊本城、永平寺などに使われています。昨年も農林水産大臣賞を受賞しています。


 今年の2月、私たちが、熊本人吉にある国宝の青井阿蘇神社で、この畳表を使って畳替えをしてきました。私はその現場の責任者を任されました。
 この畳表と同じものを、今度は本牧神社で使わせていただきました。
 これは熊本のブランド品なのです。「ひのみどり」という品種を10年がかりで改良して、「ひのさやか」、「ひのさくら」、「ひのさらさ」と3段階にランク別けしました。この「ひのさらさ」が最高級品で、八代の生産量のうち5%しかありません。
 先ほどお話した橋口さんの畳表はわれわれ畳屋道場の他にごく一部の問屋さんにしか入りません。これは畳屋道場の鏡社長と橋口さんとのがっちりとした信頼関係があるから優先的に仕入れできるのです。
 私はこの橋口さんのところで去年の11月末にホームステイして田植えをしてきました。
 これを本牧神社で使うときも、橋口さんに連絡して、縦に7畳つながったものを織ってもらいました。


 い草農家というのは田んぼに草を植えてから育てて、刈り取って、織るまでが仕事ですから、草を育てるのと畳表を織るのが上手な人が優秀な生産者なのです。
 「ひのさらさ」は手触りが絹のようです。それでこういうネーミングにしたわけです。
 もう一つ、大きな問題があります。日本の生産量は八代が95%~98%を占めています。ほとんどが八代産なんですね。
 しかし現実には、これと同数の“国産畳表”というのが出回っています。つまり偽物が出回っているのです。産地を偽装しているわけですね。
 先日も大きな産地問屋が偽装していたのがバレて入札停止になりました。中国産の畳表を「ひのさくら」としていたのです。
参加者 見てすぐ分かるのですか?
店主 一般の方には難しいですね。
参加者 どう違うのですか?
店主 単純に言えば染めているのです。本物のい草は刈り取ったあと天然の泥で染めてコーティングしていますが、中国産は泥の中に染料を入れている物が多いです。だから拭くと青くなります。
 そちらに日焼けした畳表が置いてあります。左が中国産、右が国産です。中国産は、いっぱい黒い筋が入っています。それから色がまばらです。染めてごまかしているのですが、日に焼けるとそれがバレちゃうんですね。
 これが日本でいちばん出回っている畳です。
参加者一同 ……。

店主 い草の乾燥のさせ方も違います。国産はボイラー乾燥で一昼夜。50℃から55℃でゆっくり、ゆっくりと長時間かけて水分を抜いていきます。
 それに対し中国産は80℃の石炭乾燥です。ですから乾いた時点でヒビが入っています。それを使って畳を作りますから、その上を歩くとすぐにひび割れし、そこからささくれ立ってきます。
 ですから綺麗さも耐久力も違います。近年、畳替えのサイクルは10年とか15年ですが、小さい子なんかいたらこれだと早ければ半年しかもたないですね。
 畳の値段は8000円で20年ほど変わっていないのです。そんな20年前の値段で同じものができるわけがないんです。これが、その代用品なんです。
 私のところは一般的に高いといわれますが、高いのではなくて良いものを使っているということと、20年前の8000円に照らし合わせたら、こういうものになるということなんです。こういうカラクリなのです。まだまだ話しはあるのですが、あとは交流会の場ということで、のちほど。

(つづく)